フリーな人が考えること

オーストラリアで不思議なおじさんを拾った結果、自分の承認欲求に気づいた話

これは自分の中で、これまで生きてきて気づかないフリをしていた人の醜い部分を認識してしまったすごく恥ずかしい話です。ふと思い出してしまったので、つらつらと思い出したまま書き記します。

私がオーストラリアの田舎に住んでいた時のことです。その日は雨が降りそうな金曜日の夜で、友達が泊まっているバッパー(旅人が泊まる宿)でゆっくりしていると、見た目が初老のアジア系の男性が入り込んできました。

カタコトの英語で近くにいたヨーロピアンに自己紹介するのが聞こえてきましたが、どうやらその日泊まる宿を探している様子でした。

その場にいた全員が固まりました。

それもそのはず、その町はファーム仕事に来る旅人が集まる町で、地元民でもない初老の男性が一人で来るようなところではありません。ましてやその時私たちがいたバックパッカーなど、100人規模の20代の前後の若年層が宿泊する施設で、誰も対応の仕方がわからない様子でした。

写真を載せておきます。雰囲気だけでも伝われば。

その男性のカタコトの英語の発音を聞いて、日本人かな?と思った私は恐る恐る話しかけると、思った通り日本人でした。

歳を聞くと60過ぎで、定年して一人旅にオーストラリアに来たそうです。

 

その日寝る場所がないということで、雨風をしのげる場所を探していたそうなのですが、すでに受付も閉まっており、泊まれる場所はなく、仕方なく私が住んでいた家に連れて行くことにしました。

そのバッパーから私が住んでいて家までは歩いて10分ほどで、名前も知らないおじさんと私の二人きり、家に向かいながら話を聞きます。

 

おじさんは仕事をしていた時からずっと海外に旅に出たいと考えていて、お金を貯めていたそうです。定年になり、時間ができてからはアジア、ヨーロッパ、アメリカと旅をしており、今回オーストラリアにヒッチハイクの旅に来たそうです。

 

家に着くなり、リビングに荷物を置き、特に私に何を言うこともなくスマホを充電しながらくつろぎ始めたので、元々友達とご飯を食べに行く約束があった私は来た道を戻ろうとしました。

すると私の行動を見ていたのか「出かけるんですか?」と尋ねてくるおじさん。私は「ご飯を食べに行きます」と返事をすると、私に伺うことなく自然と着いてきました。

 

正直に言うと、私は出会って自分の家に連れてくる途中から「拾ったことを失敗したな」と思っていました。

おじさんは、自分のことにしか興味がないのです。

仕事や旅など、今まで自分が何をしてきたかを、私が興味を持っているかどうかに関係なく話し続けるだけで、私への配慮や、友達も含め、心配してくれていることに対する感謝とか申し訳ない気持ちが一切ないのです。私に何も言わずに、ついてくるという行動も、その配慮のなさの表れなのだろうなと思っていました。

そして端々に滲み出る、自己顕示欲。おじさんの話ぶりとは裏腹に、仕事の話を詳しく聞くと、お世辞にも地位のあるような立場ではなかったと想像させられます。「へぇー、すごいですね」と言ってもらうことがなかったんだろうなあ。

 

ただ、一度乗りかかった船だと思い、最後まで付き合うことを決め、その夜はおじさんの今までの旅の話や価値観を聞くことにしました。

その日はもともと日本人のグループと過ごす予定だったので、おじさんと出会ったバッパーに住んでいる日本人の友達を含め、10人程度でバーで飲むことにしました。

行きつけのバーで、20代前半から30代前半の人がテーブルを囲んで話している中に、一人60歳を過ぎた男性が一人。

そしてみんながビールを飲む中、一人お湯をもらってティーバッグをつけ始めるおじさん。

 

異様な光景でしたが、初めのうちは何人かが興味を持っておじさんの話を聞いていました。

スーパーでは野菜の切れ端を、ペットにあげるからといってタダでもらう。

街中で宿泊した時はバッパーでティーバッグがもらえるから、旅先ではそれを使って飲む。飲み物をお店で買って飲むのは高い。

韓国ではヒッチハイクで拾ってくれた知らない人が食べ物をご馳走してくれる。それが彼らのおもてなしの仕方だ。

旅ではお金は使わない。

でも1,000万円は日本にある。

私の旅の話を聞いて。楽しそうでしょう。

私の写真を見て?すごいことしてるでしょう?

私のフェイスブックを申請して。こんな人いないでしょう?

私の

私の

私の

 

次第におじさんの周りからは人が離れていきました。

私が感じた感覚と同様のことを友達は感じ取ったのだと思います。

そのあとも、お金を使うことを極端に拒み、そのたびに振り回された私と友達は、結局その日はいつもよりも早めにお開きになりました。

 

帰り道、満足そうなおじさん。まだ話し続けるおじさん。

まだ私の名前すら覚えていないおじさん。

 

次の日の朝に出発すると行っていたのですが、翌日、朝起きるとおじさんはまだおり、出発する様子はありませんでした。

しばらく今後どうするのか様子を見ていると、その時タイミングが悪く、滅多にこない家のオーナーが住民の様子を見にきました。

「お前は誰だ」という話をおじさんにしますが、おじさんは理解していない様子なので私が説明すると、オーナーはしぶしぶ理解してくれたようで、泊まっていたことを許してくれました。

話がついた途端、おじさんは私のところにかけよってきて「お金払わなきゃいけませんか?」と言ってきました。

 

人助けをするときに感謝の気持ちが返ってこないことに対して、苛立つ気持ちが芽生えている自分に対して、善意は他人のためではなく、感謝され、自分の承認欲求を満たすためだったんだな、と気づきました。

「私の代わりに話をつけてくれてありがとう」という言葉を期待してしまった私は、お手伝いをして母親に褒められて嬉しかった子供の頃と本質は何一つ変わっていないんだな、と。

 

「お金を払わなきゃいけませんか?」自分のケツも拭けないのに、他人を頼ってたきり感謝もできない人間。

 

善意のふりをして、根本では誰かに褒めて欲しい、感謝して欲しいと思っている人間。

 

おじさんのことを自分のことしか考えていないと揶揄しましたが、結局私もそうだったのです。

 

何か自分の醜くて、これまで気づかないふりをしていた部分に気づいた気がしたできごとでした。